それは悪い冗談のようだった

 それは、なかったことになって欲しかった。

 ふと気付く。ああ、これは夢か、と。
 何度も繰り返し、忘れるなと言わんばかりに見せつけられる夢。
 何度見ても慣れることはなく、それどころか回数を重ねる度に痛みは増していくような気さえした。
 目の前の少年は、母親と口論している。
 ああ、出来ることなら今すぐ彼の口を塞ぎ、母親から引き離してしまいたい。それが出来ないことも、出来たとしても意味のないことは、知っているけれど。
 目の前の少年が放った、一言。
 それが彼の、そして母親の人生を大きく狂わせるとは、言った瞬間は気付かなかった。
 ハッとした表情をした少年に、母親は悲しげに微笑んでみせた。その表情を見て少年は、ガタガタと震えだした。
 ちが、おれ、ごめ……。
 言葉はきちんとした形を取らない。
 母親は何も言わずに立ち上がると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 少年は追いかけるために立ち上がろうとして、その場に転んでしまった。足が、震えている。
 その姿を見ながら、次起こることを思い出していた。
 そう、あの襖が開き、彼が姿を表して――。
「すい」
 びくり、と体が震えた。
 恐る恐る声のした方を振り返れば、襖に影が映っている。
 なんだ、これは。こんなのは、知らない。こんな出来事は、今までなかった。
 呆然と襖の影を見ていれば、その影はことりと首を傾げた。
「すい、なんで」
 影が、首が。ぼとり、と。落ちた。

「なんで母さんを、殺したの?」

 声にならない悲鳴を上げて、彼は飛び起きた。冷や汗が伝う感触が気持ち悪い。
 バクバクと煩い心臓を抑えるように、荒い息を吐く。
 なんで。
 母親の声が、何度もこだまする。
 なんで、なんて。
 あれは最悪の偶然で、必然だった。そしてその引き金を、無自覚に引いたのが彼だった。
 ただ、それだけの話。
 それでも引き金を引いてしまった彼は、罪の意識から逃れられなかった。知っていたはずなのに、と。
 ああ。
 彼は苦しそうな表情で、泣きそうな表情で、自らの頭を抱えた。

 全部、冗談ならよかったのに。

巡々三十題「それは悪い冗談のようだった」

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