桜山散策編
暁と風音が足を踏み入れたのは、
「広い、ですね。精霊だけじゃなく魔物も見るが、どれも襲ってこない」
「この山は年中何かしらの食料があるし。だからわざわざ人を襲う必要がないんだろうし」
周りを見渡しながら呟いた風音の言葉に、暁は懐から煙管を取り出しながら答えた。暁は愛煙家か、とその姿を視界の端に映しながら風音は思う。実際目に見える範囲だけでも、沢山の木の実や草花がある。山に広がる森、それはもう冬でありながら華やかな世界となっている。
突如、何かが呻くような声が響く。
自らの武器である鎌へと変わる腕輪に手をかけながら、勢いよく声のした方を振り返る風音に対し、暁は煙を吐き出しながらゆうるりと向きを変えた。二人の視線の先、少し下った開けた場所にいたのは、一人の男と一匹の魔物。
恐らく先程の呻き声は魔物のものだろう。刀を持つ男は無傷だが、魔物は傷を負っていた。
山に入る前に聞いていた、愚か者の存在。人があまり立ち寄らず、魔物が多く住まう山であるからこそ起こりうる事件。自らの力を過信しそれを振りまきたいだけの者が、魔物達に手を上げるのだという。
「……馬鹿な奴もいたもんだ」
冷たい声。思わず風音は暁を振り返った。
「あの魔物は割と大人しい種族だ。高い知能と強靱な足腰と顎を持ち、遠くへの移動を手伝ってくれる事もある」
だが、と氷のような言葉は続く。
「一度手を出してきた奴には、容赦しない」
男を見やる暁の目はつまらなそうで、絶対零度とでもいうように冷ややかだ。思わず言葉に詰まる風音だったが、突如響いた男の悲鳴と血生臭さに飛び出そうとする。
が。
「カザネさん」
たった一言。
それだけで動けなくなる。
体の中心に加わる冷たい重圧に、冷や汗が背中を伝う。
「危険でない魔物への攻撃は、規定で認められていない。あれは魔物の正当防衛でありあの男の罪だ。俺達が手を出す事じゃない」
見捨てろと告げる声は、冷たさを通り越して痛みを感じるようにさえ思えた。口を開いて反論しようとするが、それさえ色素の薄い蒼が黙らせる。
「分からないか、俺達は常に取捨選択を強いられている。そしてあいつは、「捨てるべきモノ」だ」
その瞳に宿るモノが何か、彼女にはまだ分からない。
「俺達は「主人公」じゃない。苦しんでる奴ら全ては救えないし、都合の良いことばかりは起きない。全てを守れるほど俺達は強い存在じゃない。そこを理解しておけ」
あの時だってそうだった、と呟かれた言葉。微かに、それでいて確かに蒼は揺れていた。それに対して疑問を視線で投げかけるが、何も答えずに背を向けた。
「下手したら巻き込まれるし。面倒事は極力避けたいから帰るし」
有無を言わせない物言いに風音は躊躇いながらも頷き、一度戦う男と魔物を視線を向けてから、その光景を振り払うように歩きだした。
それを背中越しに感じながら、暁の脳裏には「なかった」光景が過ぎったのだった。