つまりは

 ドアが開く音に武浦が振り返ると、眩しそうに目を細める 八尋 やひろ がいた。夜中彼女が食堂に来るのは珍しい。ちらりと時計を確認すれば日付が変わって久しく、普段ならば彼女は寝ているのではなかったかと心の中で首を傾げる。
「……どうした?」
 武浦の問いに微かにしかめられた顔。少しばかり不機嫌のようにも見える。
「別に。ちょっと眠れないから、温かい物でも飲もうと思ったって訳」
 どことなくつっけんどんな物言いは、おそらく恥ずかしさを隠す為なのだろう。八尋はからかいのネタになるような事をとことん嫌う。
 武浦がいるキッチン部分にまで来た八尋が掴んだのは冷蔵庫の扉。開け放たれたそこからは、人工的な冷気が漂ってくる。少しばかり悩んでから取り出されたのは、ミルクの入った大きめの瓶。いくら戦いの中に身を置くとはいえ、八尋は十代半ばの女子であり、武器は式神で札だ。予想以上の瓶の重さに顔をしかめたが、次の瞬間その表情は驚きに変わった。後ろから延びてきた手が軽々とその瓶を奪ったからだ。
「俺がやる」
「……、当たり前って訳なんだけど」
 端から聞けば失礼な物言いに、けれど武浦は表情を変えずに小さな鍋を取り出す。武浦以上に八尋の言葉にダメージを受けたのは、言った本人のようにも見えた。生憎武浦は彼女に背を向けていて、その表情に気付くことはなかったが。
「珍しい組み合わせじゃねえですか」
 沈黙を破ったのは新たに現れた声だった。
「お前も飲むか?」
 ホットミルクだ、と武浦が告げれば浅野は笑って頷いた。
「何か飲みてえと思ってたんです。有り難う御座います」
 いや、とその言葉に答えた武浦の顔も小さく笑っていた。
 そのやりとりをどこか睨むように八尋は見つめ、浅野はどうしたのだろうかと首を傾げた。気に障るようなやりとりではなかった筈だ。考えても仕方ないかと浅野は切り替えると、二人分のカップを食器棚から取り出す。武浦は寝る前に何かを飲む人間ではないと浅野は知っていた。
 手渡されたカップに武浦は丁寧にミルクを注ぐ。ふわりと広がる優しい匂いと湯気に、思わず頬が緩むのを感じながらそのカップを受け取り八尋に渡す。
「どうぞ」
「……」
 珍しく無言のまま八尋はカップを手にした。もう一つのカップを受け取った浅野が礼を言えば、武浦は気にするなと口元を緩めた。
「……ちょ、っと」
 じっとカップの中のミルクを見つめたまま、八尋が小さく声を漏らす。何だろうと二人が視線を向けても、その顔は上げられない。
「何て言う、か……その……感謝し、てなくもない……って訳」
 語尾にいく程小さくなっていく言葉に、顔を見合わせて二人は笑った。武浦がその頭を撫でると、一瞬ピンッと立ち上がった耳がゆるゆると垂れ下がる。その様を浅野はどこか微笑ましく思いながらミルクを口に含む。丁度良い温度に今度こそ笑みが零れた。
 ゆったりと机に腰掛けた武浦と、ミルク片手に話しかける浅野をじっと見ながら八尋は思う。何故、と。
(何であたしって、普通に礼が言えないって訳……?)
 理由は分かっている。こういう事をされるのが当たり前だったし、何より礼を言うような人付き合いが邏守隊に入るまで全くなかったからだ。いや、それは言い訳にしかならないとも思う。もうここに来て四年だ、せめて礼くらいまともに言えるようになりたいと思うが、この捻くれた性格では簡単な筈のそれさえ出来ない。それが、悔しかった。
「とりゃ!」
 額に衝撃が走り思わず手で押さえながら、いつの間にか下に落ちていた視線を上げると、浅野がしてやったりといった顔でこちらに指を向けていた。どうやらデコピンされたらしいと八尋は理解すると同時に、急になんだと疑問が浮かぶ。表情で理解したのか浅野はいやですね、と喋りだした。
「なんか悩んでるみてえじゃねえですか。そんなんじゃ寝れる訳がねえんですよ。ほら、お兄さんお姉さんに話しやがれです」
 軽快に笑う浅野に、武浦がどこか呆れたように溜息を吐きつつも表情を和らげる。
「話したくないなら、それでもいい。話して楽になるなら、話せばいい」
 二人の言葉に八尋が浮かべた表情は、驚きにも戸惑いにも似ていた。喉に何かが詰まったような息苦しさを感じながら、八尋は躊躇いながらも口を開く。
「大した事じゃないって訳なんだけど……」
「大したことかどうかっつーのは、人に寄るもんですよ」
 あっさりと返され、八尋は微妙にたじろぐ。追いつめてどうする、と武浦が拳で小突けば、浅野は微妙に居心地が悪そうに体を揺らす。
「別にそんなつもりじゃねえんですが……」
「そんなつもりで言ってた方が、余計質悪いだろう」
 そんな会話を耳にしながら八尋は小さく声に出した。
「そ、の」
「うん?」
「……ただ、何であ、たしは、……ろくに礼、も、言えない、って訳で……」
 俯く八尋を見ながら、成る程と浅野は頷いた。正直高飛車というかツンデレというか、その性格故に八尋がとる態度、そこに悪意が含まれていないのは周知の事実だった。だから特には気にしていなかったのだが、どうやら本人からしてみれば悩みの種であったらしい。
「……別に、そうとは、思わない」
 言葉を選ぶように慎重に武浦は告げる。言霊の通じない浅野ならまだしも、八尋はそうはいかない。言霊で縛ってしまうことがないように、武浦はいつだって多くは語らない。
「オレも同じ意見ですね」
 二人の言葉に八尋は勢いよく顔を上げた。どこか呆然とした表情に、浅野はくすりと笑う。
「別にきちんと『ありがとう』って言葉にしなくたって、伝わる事もあるっつー事ですよ」
 同意するように頷いた武浦を視界の端に収めながら、八尋をじっと見つめた。だって、と心の中で付け加える。
 再び俯いた八尋の尻尾や耳は、どことなく緊張を伝えてきた。
「……あ、……ありが、とう」
 蚊の鳴くような声で告げられた言葉に、武浦と笑顔を咲かせながら浅野は思う。
 あんたが良い奴って事ぐらい、みんな知ってるんですよ。勿論、オレ達も。

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