その人は
「武浦くん、入りますよ」
一言声をかけて部屋の中に入れば、そこは夕方だというのに明かりがついていなかった。薄暗いその中に踏み込めば、その人はベッドに座っていた。
「ああ、そこに居やがったんですか。というか明かりつけたらどうです」
明かりに手を伸ばすのと同時くらいに、「やめろ」という弱々しい声が聞こえたが、それを理解したときにはもう明かりをつけていた。
「……泣いてる、じゃねえですか」
そう、武浦の頬には涙が流れた痕があった。普段付けているサングラスは外されているから、その朱色の瞳が潤んでいる姿もよく見えた。
「……泣いてない」
そう言って顔を背けた武浦の表情は、悲しげであると同時に強ばっているように見えた。
浅野が近付こうと歩みを進めようとすると、武浦から「来るな」と鋭い声が飛んだ。
「……そうはいかねえですよ」
一瞬その声に驚いたものの、臆することなく浅野は武浦に近付いた。「なんで」と武浦の口が動いたような気がする。
どういう意味での「なんで」なのだろうか。近付くことか、言葉を無視したことか。
武浦はもしかしたら今、言霊が発動することに賭けたのかもしれない。でも浅野に言霊は効かない。そういう性質だということは、武浦も理解している。だからこそ、武浦は浅野が隣にいることを許すのだから。
では、近付くことにだろうか。浅野は人の感情が理解できないわけではない。ああ言えばきっと放って置いてくれるとでも思ったのか。確かに他の人だったらそうしていたかもしれない。でも。
あんたは、オレの大切な人なんですよ。
そう思いながら、ベッドに座って呆然とこちらを見る武浦を掻き抱いた。
「あ、浅野……?」
困惑したような声が、すぐ側から聞こえる。
浅野は言葉よりも行動を重視する。それは圧倒的に比率が違った。だから浅野に言霊は効かない。
でも、目の前のこの人は違う。言霊を扱う位なのだから、言葉に重きを置いている。
今の行動だけでは伝わらないかも知れない。救えないかも、しれない。
「大丈夫です」
武浦の指先が、微かに震える。まるで、何かに怯えるように。
「オレは、ここに居ます。あんたの隣に、ずっと居ます」
指先が、震えて。ぎゅうっと浅野を掻き抱いた。
怯えるような、怖い夢を見た子供のようなその姿に、浅野はさらに腕に力をこめた。
大丈夫、大丈夫です。
何度も繰り返し、囁きかけた。腕に、力をこめた。
もう、失いたくない。
そう思ったのは、どちらだったのだろうか。
「…泣いてるじゃないか」と、浅野は哀しげな声でそう言って、愛しいひとを掻き抱いた。その指先が、なにかに怯えるように震える。…もう、失いたくないから。
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